紅茶ism-MMO・RTS等のプレイ記録-
主なゲーム:ArcheAge/Total War Attila
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【西ローマ】グランドキャンペーン第15夜(最終回)
12年に及ぶ激戦の後
皇帝ハビトゥス率いる遠征軍は小アジアをついに攻略し
シリア北端の都市アンティオキアに到達した。
シリア、パレスティナ、そしてエジプト、リビア
地中海帝国の完成において、後はこれらの地域を残すのみとなった。
しかし、もはや兵は疲れ切っていた。
この先に存在する敵はペルシャ連合の小国群などではない。
ヨーロッパとアジアにまたがる長大な防衛線を維持しつつ
東方の盟主サーサーン朝と剣を交える力は既に残されていなかった。
既に帝国の拡大は限界に達しようとしていた。
現実的な問題として帝国の西端
ガリア・ゲルマニア方面では
フランク族、サクソン族、デーン族といった蛮族がしばしば侵入を繰り返し
国境を脅かしていた。

皇帝ハビトゥスはアジアへの夢を捨て
ペルシャ連合に対し和平の使者を送った。
そして停戦が為ると、
蛮族征伐の為、軍を西へと向けた。
帝国西方の防衛を確固たるものにするには
祖父ホノリウスの代に失ったライン川西岸を奪還し、
更に海を渡ってブリタニアを拠点にしているサクソン族、フランク族に打撃を与える必要があった。
AD480年秋
ローマ帝国軍4個軍団は属州ベルギカへ侵攻
ブリタニアへの補給路を分断した後
翌AD481年
雪解けを待ってブリタニア上陸を開始した。
兵は東方での長き戦いで疲れており、
決して士気は高いとは言えなかったが、
西方の蛮族は、
重装備で戦術に長けた東方の軍隊に比べれば、
組み伏せやすい相手であった。
ローマ軍団は、そこからわずか3年でライン川西岸地域と、
ブリテン島の南半分を完全に制圧。

そしてこの戦いが、ローマ帝国の歴史における最後の拡張となった。
AD395年に東西に分裂した帝国のうち
経済的に発展していた東帝国はフン族の侵入によって混乱し
その混乱に乗じて帝国内の旧王国が次々と独立を宣言
帝国に反旗を翻した。
結果、混乱を収めることはかなわず、数年の後に滅亡した。
西帝国は、ゲルマン人やノルマン人の侵攻を受けつつも
イタリア・ガリアで踏みとどまって国力を蓄え
後に失地の殆どを回復。
更にギリシャ人や、東方の国々との戦いの末に
旧東帝国領の約半分を併合し、東西帝国の再統一を果たした。

第二次パクス・ロマーナの訪れ
この後世界は
ローマ帝国とサーサーン朝という二大国の均衡の下
時に小競り合いを繰り返しながらも、およそ150年の平和を保つ。

アラビアの砂漠から、三日月の旗を掲げた軍勢が現れるその時までは。
皇帝ハビトゥス率いる遠征軍は小アジアをついに攻略し
シリア北端の都市アンティオキアに到達した。
シリア、パレスティナ、そしてエジプト、リビア
地中海帝国の完成において、後はこれらの地域を残すのみとなった。
しかし、もはや兵は疲れ切っていた。
この先に存在する敵はペルシャ連合の小国群などではない。
ヨーロッパとアジアにまたがる長大な防衛線を維持しつつ
東方の盟主サーサーン朝と剣を交える力は既に残されていなかった。
既に帝国の拡大は限界に達しようとしていた。
現実的な問題として帝国の西端
ガリア・ゲルマニア方面では
フランク族、サクソン族、デーン族といった蛮族がしばしば侵入を繰り返し
国境を脅かしていた。

皇帝ハビトゥスはアジアへの夢を捨て
ペルシャ連合に対し和平の使者を送った。
そして停戦が為ると、
蛮族征伐の為、軍を西へと向けた。
帝国西方の防衛を確固たるものにするには
祖父ホノリウスの代に失ったライン川西岸を奪還し、
更に海を渡ってブリタニアを拠点にしているサクソン族、フランク族に打撃を与える必要があった。
AD480年秋
ローマ帝国軍4個軍団は属州ベルギカへ侵攻
ブリタニアへの補給路を分断した後
翌AD481年
雪解けを待ってブリタニア上陸を開始した。
兵は東方での長き戦いで疲れており、
決して士気は高いとは言えなかったが、
西方の蛮族は、
重装備で戦術に長けた東方の軍隊に比べれば、
組み伏せやすい相手であった。
ローマ軍団は、そこからわずか3年でライン川西岸地域と、
ブリテン島の南半分を完全に制圧。

そしてこの戦いが、ローマ帝国の歴史における最後の拡張となった。
AD395年に東西に分裂した帝国のうち
経済的に発展していた東帝国はフン族の侵入によって混乱し
その混乱に乗じて帝国内の旧王国が次々と独立を宣言
帝国に反旗を翻した。
結果、混乱を収めることはかなわず、数年の後に滅亡した。
西帝国は、ゲルマン人やノルマン人の侵攻を受けつつも
イタリア・ガリアで踏みとどまって国力を蓄え
後に失地の殆どを回復。
更にギリシャ人や、東方の国々との戦いの末に
旧東帝国領の約半分を併合し、東西帝国の再統一を果たした。

第二次パクス・ロマーナの訪れ
この後世界は
ローマ帝国とサーサーン朝という二大国の均衡の下
時に小競り合いを繰り返しながらも、およそ150年の平和を保つ。

アラビアの砂漠から、三日月の旗を掲げた軍勢が現れるその時までは。
【西ローマ】グランドキャンペーン第14夜
征服帝ルクルスの国土回復政策によって
東西分裂以前の広大な領土の7割方を回復したローマ帝国は、
皇太子デキムス・クルティウス・ハビトゥスによって継承された。

皇帝となったハビトゥスは父の遺志を継ぎ
ローマ帝国領土の完全回復を意図したが
ここにきて、帝国の膨張には限界が見え始めていた。
AD468年春
エジプト攻略の為
リビアへと侵攻した2個艦隊と3個軍団が
サーサーン朝陸海軍に惨敗した。
無敵であったはずの海軍は「ギリシャの火」によって焼き払われ
百戦錬磨を誇った陸軍は、ペルシャ伝統の巨大な戦象によって蹂躙された。

勝利の勢いに乗り攻め寄せたサーサーン朝軍を
北アフリカの都市マコマデスで食い止めることには成功したが
これ以降、アフリカ方面軍は防戦に回ることを避けられず
南方での攻勢は頓挫した。
一方、帝国の東方
小アジアでは皇帝ハビトゥス率いる東征軍が
ペルシャ連合のアルダン、アリア、ラジカといった小王国群を相手に
多大な犠牲を払いつつも、軍を進めていた。
コンスタンティノポリスの防衛上
対岸に位置する小アジアは必ず押さえておかねばならない土地であった。
小アジア攻略は12年の歳月をかけて行われた。
東西分裂以前の広大な領土の7割方を回復したローマ帝国は、
皇太子デキムス・クルティウス・ハビトゥスによって継承された。

皇帝となったハビトゥスは父の遺志を継ぎ
ローマ帝国領土の完全回復を意図したが
ここにきて、帝国の膨張には限界が見え始めていた。
AD468年春
エジプト攻略の為
リビアへと侵攻した2個艦隊と3個軍団が
サーサーン朝陸海軍に惨敗した。
無敵であったはずの海軍は「ギリシャの火」によって焼き払われ
百戦錬磨を誇った陸軍は、ペルシャ伝統の巨大な戦象によって蹂躙された。

勝利の勢いに乗り攻め寄せたサーサーン朝軍を
北アフリカの都市マコマデスで食い止めることには成功したが
これ以降、アフリカ方面軍は防戦に回ることを避けられず
南方での攻勢は頓挫した。
一方、帝国の東方
小アジアでは皇帝ハビトゥス率いる東征軍が
ペルシャ連合のアルダン、アリア、ラジカといった小王国群を相手に
多大な犠牲を払いつつも、軍を進めていた。
コンスタンティノポリスの防衛上
対岸に位置する小アジアは必ず押さえておかねばならない土地であった。
小アジア攻略は12年の歳月をかけて行われた。
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